確固たる軸があれば、肩書きもビジョンもいらない―格闘家・小川直也

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写真:山田英博  文:大野雅人

 

一体、サラリーマンとはなんなのか。元会社員である著名人たちが会社員時代を語る。“名刺を捨てた男たち” は当時、何を考えながら働いていたのか。仕事へのモチベーション、プライベートとの比重、そして夢への挑戦……。

 

ひとつだけ言えるのは、全身全霊その職務に取り組み、中途半端な仕事はしなかった。そして、その経験が活きているからこそ、彼らの「今」がある。その核心にせまるべく、「For M」編集部は“名刺を捨てた男たち”に単独インタビューを敢行した。

 

小川直也、48歳。プロレスラー、総合格闘家、タレント、歌手。元柔道選手(五段)、バルセロナ五輪銀メダリスト――。そうか、彼はたしか柔道家だったけど、プロレスラーとか総合格闘技とかもやってたよな……。

 

四角い道場とかリングとかっていう枠のなかで、大暴れする小川直也をみんな見ていた。そう、同じく四角いテレビという枠で、「ハッスル! ハッスル!」と連呼していた、あの彼だ。

 

今回の“名刺を捨てた男”は小川直也。明大柔道部から日本中央競馬会(JRA)へ、柔道家からプロレスラーへ、総合格闘技家へ、そして父へ……。50歳を前に、今、小川直也は何を感じ、何を想うのか。雪が舞う茅ヶ崎、小川道場へ2016年12月初旬、向かった。

 

 

■勝負から護衛へ。「あれはオレの流れなんだよね」

 

「『日本中央競馬会』(JRA)には、7年いたんだよね。今は強豪だけど、オレんときは、柔道部を強くしようという姿勢じゃなかった。警備を重視していたJRAと明治大学柔道部はつながりがあって、当時の明大柔道部の師範がJRAの職員ということで、その流れでJRAに入ったんだよね」

 

明治大学柔道部時代、1987年エッセン大会と、1989年ベオグラード大会の世界柔道選手権で、無差別級において金メダルを獲得した小川直也は、「日本中央競馬会」という就職先を選ぶ。そのミッションは、勝負から護衛の世界への転身だ。

 

「JRAには、警察の手を借りずとも自分で営業しているところは自分で守るという意識があった。トラブルを起こした客を、しっかり警察に引き渡すまで自分たちでやると」

 

そういえば、リオデジャネイロ五輪・男子90キロ級金メダリストのベイカー茉秋選手もJRAに入社するという。これも小川の作った流れだ。

 

「オレはオリンピック出場選手だったから、暴力団排除とかトラブル解決という現場に立ち会うってことはあまりなかった。でもオレからなんだよね、選手を強化していくっていう姿勢に変わったのは。当時、JRAのイメージ戦略とも重なったんだよね。オグリキャップが活躍して、JRAがこれから伸びようとするときだった」

 

 

■会社に残って新しいレールを敷いてほしい

 

会社員生活を送りながら、転機が訪れたのは1996年。アトランタ五輪の日本代表選手として渡米。5位という結果に悔しさを覚えながら、柔道を続けるか、会社の戦力となるかの岐路に立たされた。サラリーマン生活7年目のことだ。

 

「JRAからは引退後も『柔道で培ったものを仕事で活かしてくれ』って言われていた。でもそれは、精神論的なものでしかなかった。『人との交流やコミュニケーションで活躍できる人事という場で残ってくれ。ゆくゆくは会社に残って新しいレールを敷いてほしい』ってね。

 

オレが入ったタイミングで、外郭団体の警備会社まで起こしたんだから、良い会社だなって思ってるよ。給料も良いしね」

 

最後まで「残って貢献してくれ」と言ってくれた会社に感謝と不本意さを痛烈に感じつつ、「抑えられない自分がいた」という小川。そして、自ら全日本柔道連盟の国際試合強化選手としてのポジションから降り、退社することを決めた。

 

「JRAの人たちは、熱心に引き止めてくれた。『おまえのために環境を整えてやったのに』『人を採用するっていうのはそういうことなんだぞ』って。ものすごくありがたかったですよね。だから、辞める方が心苦しかった。でも、JRAをリスペクトしたうえで自分の人生を考えた。

 

オレの直属の上司で40代の先輩が、給与明細とボーナス明細を手にしてやってきて、『この給与明細の数字を捨てるのか』って言われて。一番分かりやすい方法だよね。それでも辞めたのは、自分がどうあるべきかって考えたからだよ」

 

 

■会社から王国へ、「一緒にやらないか」

 

「迷わず行けよ、行けばわかるさ」と静かに伝え、リングを去っていった“あの人”は、最後の愛弟子となる小川と急接近した。小川直也は、高給取りの会社員の肩書きを捨て、猪木という「国王」に仕える道を前に、迷いはなかった。

 

「サラリーマンで生きるのも良かったけど、プロの世界は自分の力を試せるって思ったんだよね。猪木さんの話を聞いて、そっちの世界の方が魅力を感じたし。柔道をそのまま活かせる。『これからは間違いなく、総合格闘技がブームになる』ってそのころから猪木さんは予言していて、プロレスも変革期を迎えてて、『一緒にやらないか』ってね。

 

当時、オレが28歳。アトランタ五輪のときに長男が生まれてるんで、まあ、大変ですよね。家族もいるから。でも、家族を養うために、会社で趣味として柔道を続けていくっていうモチベーションはなかった」

 

「踏み出せば その一足が道となり、その一足が道となる」。そう伝えるプロレス界の巨匠のもとへと後押ししたのは、家族だった。

 

「妻に『40歳になって後悔しない人生を』って言われてね。プロレスも興味がなかったわけじゃないし、柔道が活かせるのはどこかって考えたら、やっぱりプロレスなのかなと。柔道だけを突き詰めて、自分にしかできない“オンリーワン”へっていう想いもあったけど、オンリーワンになると、今度はほかに応用できるものが限られてくるんだよね。

 

あと、生活に余裕ができればできるほど、人間は怖いもの見たさが出てくる。隣の芝生は青いっていうけど、現状の幸福感に麻痺しちゃって“ないものねだり”しちゃう。だから、家族のひと言はありがたかったよね」

 

 

■宇宙人に仕えた? 全然そうは思わないんだよね

 

“宇宙人”とまで言われたアントニオ猪木の付き人としての道を選んだ小川。そこには意外にも、JRA時代の経験が活きたという。

 

「JRAって、役所でしょ。競馬法にのっとって動く。だから法律を守って動いて、社会で生きるためのルールとイコールなわけ。会社員時代に世の中のシステムが見えたっていうのが貴重な経験だった。競馬界は、審判や馬主がいて、税金を収めるっていう、ひとつの小さな国と同じ。

 

だから猪木さんの話も、納得して動けたというかね。『JRAルール』が『イノキルール』になっただけのこと。

 

よく猪木さんのことを宇宙人だっていう人がいるけど、全然そうは思わないんだよね。『社会システムを分かったうえでの話だからな』と。国王はいわば、経営者としての立場で話をしているんだよね。

 

経営者って、成功するかしないかで勝負している。確実に成功するような話なんてないわけだから。だから、JRAは世の中に出るためにすごくいい勉強になった。決してサラリーマンがダメなんてことはない。会社でいかに学んで吸収できるかでしょ」

 

 

■社会、武道、猪木、「ルールのいいとこ取りができた」

 

「武道のルール、社会のルール、猪木さんのルールっていろいろ学んできて、ルールのいいとこ取りができたよね。でも、自分のなかで曖昧にするっていうルールもある。よく猪木さんが『決めなし』って言うんだけど、これは決めるとそこにとらわれて発想が狭められるという考え方」

 

JRAという小さな国で培った動きが、アントニオ猪木という“王国”ですぐに活きる。そのすべてに共通して存在するのは、ルールだ。一見、突拍子もない「イノキルール」も、小川にとってはそれほど、理解できないことではなかったと言う。

 

「たとえば、午前中の仕事が終わって、『じゃあ、今日はそうだな、ハワイ行くか』とかね。午前中の練習を終えて午後の便でハワイに飛ぶと、猪木さんを担当する新聞記者も大慌て。僕らには到底分からない直感があるんだろうね。

 

『決めないなかの自由な発想、それがプロには一番大事なんだよ』とも教えてくれたよね。今、国会議員やってるけど、大変なんじゃねえかな(笑)。決めていく現場だからね。猪木さんに一番似合わない仕事だよね。時間もカツカツだし、よくやってるなって思いますよ」

 

 

■勝ち負けにこだわってんじゃねえよ

 

燃える闘魂に仕え、そのルールに則って動きながら3年が経とうとするころ、小川は次のステージに足を載せることになる。それは、「小川直也として生きろ」という、アントニオ猪木のひと声からだ。

 

「突然ね、3年経ったときかな。『これからは猪木の近くにいるんじゃなくて、独立して、小川直也として旅立って行かなきゃいけないんだ』って言われて。『おまえはそういう枠じゃないから、独立しろ』ってね。

 

おもしろいよね。ある意味、懐が深いというかな。猪木さんも3年間でモノになんなかったらダメだって思ってたんじゃないかな」

 

「小川直也」として独り立ちしたころ、「ハッスル」のキャプテンとして旋風を巻き起こしていた彼に、師匠のアントニオ猪木は、こう助言していた。

 

「2008年のとき。『プロレスは戦いでもあるけど、興行なんだ』ってね。答えを一発で言われてしまう。そうか、興行のために何をすべきかって考えた。下からの積み重ねだけど、上からポンって道標を立ててくれたから、動けたよね。JRAっていう興行の現場にいて、自ずと何をすべきかって道筋が見えていた。

 

『自分の勝ち負けにこだわってんじゃねえよ』って話ですよね。『だから、マズい試合したら、今日500人来たお客さんが、明日になれば250人になるかと思ったら違うぞ、ゼロだぞ。ゼロか500かどっちかなんだ』って言われてね」

 

小川いわく、アントニオ猪木が口にすることの多くは経営者的な話。興行にもプレイヤーやプロデューサーがいるが、アントニオ猪木が話すのは、いつもその先のことだった。儲かるか儲からないか、そこに尽きる。プロレスの興行を一番に理解し、揺るぎないものを持っていたというのだ。

 

 

■そもそも肩書きを捨てている

 

1997年、アントニオ猪木・佐山聡が率いる「UFO」に入団し、プロレス界への道を突き進んだ小川直也。「新日本プロレス」「PRIDE」「ZERO-ONE」などを渡り歩き、「PRIDE 男祭り」 では数々の死闘を繰り広げた。

 

柔道からプロレス、総合格闘技と次々に戦いの場を変える小川は一体、何者なのだろうか。

 

「オレ、昔から肩書きはなくていいと思っていた。取材があると肩書きを聞かれるけど、周りはこだわるじゃないですか。でもオレは人の見方に委ねていいと思うんだよね。

 

オレの場合は、年寄りからは『柔道家』って言われるし、オレら世代は『格闘家』って言うだろうし。もう少し若い子たちからは、『男気のじゃんけんやってる人でしょ』って言われるだろうしね。人それぞれで変わるでしょ」

 

2010年には、ジャンボ鶴田と同じ筑波大学大学院人間総合科学研究科に入学。コーチングを学び、柔道家・指導者としての道を切り開いた。

 

「あえて、オレは何者だって言わずに、肩書きを捨ててるわけでしょ。肩書きを持って生きるのがサラリーマン。会社の肩書きで商売しているわけでしょ。肩書きなんて小さな枠にとらわれるな。猪木さんの『おまえは小川直也なんだから』という言葉につながるよね。ちっちゃくなっちゃう自分がいやだったからね。とらわれずにやろうと」

 

 

■プロレスは高次元な舞台装置。超一流の証とは

 

「猪木さんにプロレスは、360度の世界と教わった。普通の舞台って180度でしょ。舞台裏は見せない。でもリング上は、自分が立っている背後のことも意識して動かなければならない。

 

後ろの客にもどう見せるかってこと。ケツばっかり向けててもダメ。テレビカメラの位置はその都度変わるし、瞬時に繰り出される技もある」

 

先に「勝ち負けにこだわっていては二流」と言ったが、小川直也が肌身で感じた「アントニオ猪木」の超一流の証を教えてくれた。

 

「オレには柔道で養った1分単位の体内時計があるけど、プロレスはプロレスで別の体内時計をつかまなければならない。かつて19時からゴールデンタイムで2時間プロレス中継を放送していたとき、20時53分あたりで、猪木さんが決めるか決まらないかっていう瞬間にCMに入っちゃうわけ。

 

CMが明けると試合が終っていて、中継には誰もいない空のリングが映る。視聴者は『で、どうなったんだ?』って思う。当時はネットなんてないから、結果が分からない。すると、翌朝のスポーツ新聞が売れるし、『今度は興行に行こう』ってなる。

 

猪木さんの言う『“超一流”ってそこなんだよ。決めちゃダメなんだよ』って思想。それを生放送でやる。そこが、まさに超一流の世界だったな」

 

 

■小川直也の「真価」を垣間見た

 

現在、小川は茅ヶ崎に道場を開き、今年で11年目に入る。そこで育った長男は、柔道の学生世界チャンプとなった。小川直也、48歳。学生チャンピオンから五輪選手、会社員を経て、今の姿がある。

 

「会社に残ることが正解じゃないけど、自分のなかの正解を追いかける生き様を、会社員時代の仲間が見てくれているから、誰も否定はしない。『おまえの選んだ道は間違いじゃなかったな』って今も言ってくれるよ。だから不義理にできない。

 

今でも、会社員時代の上司と顔を合わせるけど、そこで気持ち良く会話ができるのかできないのか、そこなんじゃないかな。『立つ鳥、跡を濁さず』っていうかね」

 

そういえば、小川直也ほどいろいろな格闘技団体に出入りしている選手はいない。本人も「郷に入れば郷に従え」という言葉を使っていたが、柔道家、プロレスラー、総合格闘家でありながら、バラエティにも出演する器用さを持っている。小川直也の「真価」はそこにあるのではないだろうか。

 

「自分という軸があれば、右に振ろうが左に振ろうが、軸があるからこそ左右の幅ができる。高い低いも前後ろも同じ。軸がひとつあれば、いつでもそこに戻ってこれるんじゃないの。

 

画用紙一枚、人が見れば表と裏の二面に見えるけど、厚みも合わせて六面という人もいれば、無限の粒子の塊にも見える人もいるんだから。軸を持って柔軟に対応しなきゃいけないよね。オレのビジョン? ビジョンとか、計画とかって、自分なりにうっすらと柔軟に持っておけばいいんじゃないかな。オレはそう思うけどね」

 

「肩書き」も「立ち居振る舞い」も「ビジョン」も、小川直也にとっては、それほど重要なことではないのだろう。それは、確固たる軸を持っているからに違いない。

 

 

【プロフィール】

格闘家 

1968年、東京都生まれ。明治大学経営学部卒業。全日本柔道選手権優勝7回。学生時代には、山下泰裕以来10年ぶりの1年生チャンピオンに輝く。1989年の世界大会では、オール一本勝ちで95kg超級、無差別級の2階級を制覇。大学卒業後、「日本中央競馬会」(JRA)、サービス推進部保安企画課に所属。バルセロナ五輪(1992年)、アトランタ五輪(1996年) に出場した。JRA退社後は、「UFO」「新日本プロレス」「ハッスル」とプロレスから「PRIDE」など総合格闘技ブームを牽引。

 

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