映画版『昼顔』。不倫に敏感な時代に公開する意味を考える

出典:「」より

かつてフジテレビ系で放送された、上戸彩・斎藤工主演の大人気ドラマ『昼顔』が映画になって、6月10日から全国公開される。
 
そのプロモーションを兼ね、、読めばいろいろゴメス的にも考えさせられることがあったので、今日はそこらへんについて書いてみたい。けっこうロングなインタビュー原稿なので、興味のある方は↑をクリックしていただくとして……とりあえずは、キャッチーだと思われる箇所のみをピックアップすることからはじめよう。
 

井上さんが作品に寄せたコメントの一節に印象的な言葉があった。
 
<人を愛することは、奪うことです。恋敵から奪い、相手そのものを奪い、ときには自分も失くします。>
 
「愛することは、奪うこと」。この言葉の真意は?
 
「人を好きになると、イライラすることも、もやもやすることもあるし、あとで後悔するような馬鹿な行為だってしてしまう。まして不倫だったら、家庭や仕事すら失う可能性がある。誰も好きにならなければ、毎日冷静に落ち着いた生活ができるのに」
「それでもしてしまうのは……本能、としか言えないですよね。何かを奪う、自分を失うことは魅力なのだと思います。人間が一番裸になれる、どうしようもなくその人自身が出てしまう行為が『恋愛』だと思います」


一文字たりともインネンをつける余地のない完璧な回答──少なくとも私は100%同感だ。でも、この発言……いや、この作品自体、不倫にはめっぽうウルサイ今のご時世に、大丈夫なのか?
 
ドラマ版の『昼顔~平日午後3時の恋人たち~』が放送されたのが2014年。そして、去年2016年の不倫スキャンダルの連続発覚を経て、日本社会の不倫に対する許容度、価値観は、あまりに大きく変わっている。まだ「不倫は文化」的な寛容さが残っていた長閑な3年前とまったく事情が異なり、もはや「不倫は犯罪」にも匹敵するのである。
 
当記事の下にある書き込み欄をチェックしてみると……案の定、「不倫を美化するな!」みたいな反論が、ザッとした見立てでも、じつに半分以上を占めている。
 
そりゃあ「不」と「倫」がくっついているんだから「倫理的によろしくない行為」であることくらいはわかっている。「(不倫)されている側は胸が張り裂けるほど苦しい」のも当然だろう。
 
ただ、「そうなっちゃうときはそうなっちゃうんだよ!」といったフィクションに、その作風がたとえ美化寄りであろうが糾弾寄りであろうが、作品の主観にとやかく言うのは、それこそまさに“表現の自由の侵害”と概念的には一緒じゃないのか? ならば、ときに殺人者側を美化したりもする2時間ドラマなんかも同罪ではないか。同罪どころか、殺人というれっきとした犯罪を犯しているのだから、罪深さの面では“上”かもしれない。
 
百歩譲って、テレビドラマならチャンネルを回しているとたまたま目に入っちゃうこともあるわけだから、そこに過敏な反応を示すのもしょうがない。が、映画や小説だと、嫌なら行かなきゃいいのだ、買わなきゃいいのだ。まあ、私もこの映画……十中八九行かないんですけどw。『シン・ゴジラ』なんかと違って、わざわざ大画面で観る必然性を微塵とも感じることができないんで……。

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