「ミスター・バーテンダー」山崎達郎氏の偉大すぎるバーテンダー人生

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亡くなる数日前、札幌すすきの「BAR PROOF」のオーナー・バーテンダー中河宏昭氏のもとに電話があったそうだ。「しっかりやれ」という趣旨だったと伝え聞く。BAR業界で知らぬ者なき巨匠、「BARやまざき」のオーナー山崎達郎氏が亡くなったのは11月4日のこと。悪性リンパ腫と報じられている。享年96歳。

 

札幌の、北海道のBAR文化は、山崎氏によって生まれたとして過言ではない。日本バーテンダー協会最高名誉賞「ミスター・バーテンダー」の称号を持つ。しかし、氏のバーテンダー人生が順風満帆だった……ということではない。

 

氏は1920年(大正9年)、東京・小石川の生まれ。子供の頃の夢は画家。しかし7歳で母を、17歳で父を亡くし、染め物関係の仕事に就いた。第二次世界大戦がはじまると、招集され衛生兵として陸軍病院へ。軍医学校に勤務していた際、終戦を迎えた。自身バーテンダーになっていなかったら「医者になっていたと思います」と答えている。軍隊時代の友人の紹介でその12月、東京有楽町にある東京會舘に勤めることに。東京會舘はGHQ専用の将校クラブとなっており、そこで自然とバーテンダーとしてのキャリアをスタートさせた。同時に画家の夢は捨てきれず文化学院に通い卒業、さらに東京芸術大学の聴講生にもなっていた。一方、バーテンダーとしてはさらに3軒ほど将校クラブを渡り、横浜にてフランス人オーナーの「アンドレー」に勤務。その頃、東京會舘のチーフバーテンダー本多春吉氏より札幌行きを持ちかけられた。

 

ここで画家志望だったことが影響する。「北海道の景色をゆっくり描ける」、そう思ったそうだ。1953年、1年程度で帰京するつもりで札幌に赴いた。当時、札幌の人口35万人程度。まだ三階建て以上の建物もなかったという。この頃の札幌の写真を見せられたことがあるが、建物もまばらな片田舎のようだ。氏はススキノ銀座通りに面した舶来居酒屋「モンタナ」に勤務。銀座の高級店ばりのこの店はしかし大繁盛。しかも、北海道のバーテンダー協会のもめごとにも巻き込まれ、氏はすっかり帰京する機会を失ってしまった。

 

 

■災難続きでも心折れることはなかった大正生まれの芯の強さ

 

1957年、氏に独立開業の機会が巡って来る。だが、開業を持ちかけて来た財界の常連客が氏の資金をだまし取り、借金まで残し失踪。さぞかし失意のどん底だったかと察せられるが、当時から氏の人柄に魅せられた常連や関係者が多かったのだろう、見舞金や借入により翌58年に「BARやまざき」をスタートさせた。氏の絵を購入し、資金として提供してくれた客もいた。スタートは木造の一軒家、当時は15人ほどのホステスもいたという。そんな時代だ。時代は高度成長期、無事借入金も返済できた。

 

しかし1975年、またも災難が氏を襲う。火災により店を失うはめに。翌年の再建以降、ホステスのいないオーセンティックなBARとして歩み始めた。それにしても、よく心折れなかったものだ。普段の氏は、至って穏やか。しかし、大正生まれの芯の強さを内に秘めていたのだろう。

 

「ミスター・バーテンダー」を与えられた2010年、すでに90歳を迎えていた。後進バーテンダーたちもが「巨匠」と呼ばれる時代になっていた。氏は檀上の挨拶で「まだまだ勉強です」と言い切った。会場に居合わせたバーテンダーたちは、ざわめきだった。「山崎さんが『まだまだ勉強』なら、俺たちはいったいどうすりゃいいんだ」と。少々腕が立つからと言って、天狗になっている若いバーテンダーには、この挨拶を思い起こし、ぜひわが身を振り返ってもらいたいものだ。

 

 

■客の横顔の切り絵コレクションは約5万枚

 

BARやまざきの名物に切り絵がある。氏の芸術家としての腕がいかんなく発揮されたコレクションにもなっている。白い紙を二枚重ね、客の横顔、シルエットをその場でちょきちょきと切り取ってくれる。仕上がった二枚のうち、一枚は客にプレゼント、もう一枚は店にスクラップされている。その数は5万枚近くになるだろう。

 

数年前、氏から「切って差し上げましょう」と言われ、私の横顔もそのコレクションに加わった。BAR評論家を標榜するだけに天にも昇る気分であった。多くの客が「切ってください」とせがむのを横目に、どこか意固地な小心者だけに氏から提言されるまで待つつもりでいた。今となっては、機会を逃すことなく胸をなでおろしている。

 

「お客さんが喜んでくれたら、それでいいんです」、どこまでも穏やかに語る。開店以来続けていた切り絵は2002年に2万8000余。2013年6月には4万8000枚。晩年、カウンターに立つ機会が減るにつれ、むしろ切り絵が量産されていることが判る。なお、店の「看板」は山崎氏自身の横顔をシルエットにしたもの。店のシンボルとして知れ渡っている。客のためにマジックをも披露。「大事なのはサービス精神。腕よりも気持ちが伝われば(客は)わかってくれるんです」と事あるごとに氏は語っていた。どこのバーテンダーも、この巨匠について語ることはあれど、その頂きに近づく者さえ少ない。

 

オリジナルのカクテルは約200種。客のリクエストに応じているうちにこれだけの数になった。ジンとアクアビット、カンパリから成る「クローバー・フォー」をオーダーするのが、私の中ではスタンダードと化していた。お年を召し、少々耳が遠く、氏にオーダーを入れるたびに、カウンターに並ぶお弟子さんたちが、耳元でオーダーを呟きなおす様を微笑ましく思っていた。

 

カクテルの創造と絵画創作は似ているという。「絵を学び、実際に筆を取ってカンバスと向かい合ってきた経験がカクテルの創作に活かされていると思いますし、逆にカクテルを作る感覚が絵を描くことに活かされているということもまたあるように感じますね」。氏の創作にまつわる興味深い言葉だ。

 

数年前の冬、出勤時に雪ですべり怪我。それ以来、カウンターに立つ時間は限られ、氏にお会いするためには事前に電話を入れ、所在を確認するようにしていた。昨秋からはカウンターに立つことも少なく、店内で客と会話を楽しんでいた。90歳を過ぎたご高齢。それでもなぜか、山崎氏は永遠にカウンターに立っているのではないか……。勝手にそう思い込んでいた。

 

氏には1000人以上にも及ぶ弟子がいると囁かれる。冒頭の中河氏をはじめ、近隣の「Deux Ermitage」の中田曜子氏、「ガス燈」の小野寺保幸氏など、いまや札幌のBARを語る上で、欠かせないバーテンダーばかり。私がいつもお世話になる東京湯島の「EST!」に立つ渡辺宗憲氏も若き頃、修行に赴いた。輩出したバーテンダーの誰もが偉ぶることなく、物腰が柔らかい。安心して一杯を委ねることができる方ばかりだ。

 

山崎氏は今年9月から自宅で療養していたと聞いた。現在も「やまざき」のカウンターに立つメンバーを始め、より身近におり肩を落とす者も多いだろう。しかし氏亡き今こそ、みなさんにはその系譜を後進に伝えて頂きたいと願うばかりだ。こんな折、一介の呑み助にできることは殊の外、限られている。改めてご冥福をお祈りする。献杯!

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