日本のような挙手はタブー! ドイツやフランスでは発言するときに「人差し指」をあげる理由

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アメリカでも、そしてヨーロッパでもポピュリズムが台頭してきている。

 

移民排斥を訴える政党が支持率を伸ばし、4月から5月にかけて行われるフランス大統領選では、極右政党FNフロントナショナルのマリーヌ・ルペンが一回目の投票では1位になるのではと予想されている。

 

 

そのマリーヌ・ルペンでも、ユダヤ人差別にだけは敏感だ。

 

父親でかつてのFN党首であったジャン・マリー・ルペンが「ガス室は第二次世界大戦の末梢事」と発言したため、党創設者であるにもかかわらず、娘のマリーヌ・ルペンはすぐさま父親を除名処分にした。

 

ヨーロッパの人々は今でも世界史上最悪とされるホロコーストの影をひきずり、ナチズムを拒絶し続けているのだ。

 

 

 

■ドイツやフランスでは授業中に手をあげてはいけない

 

フランスの小学校に入った娘は、よく「ママ、今日は学校でいっぱい指をあげたよ」と言っていた。手を上げたとは決して言わなかった。

 

学校の授業中、先生が「この答えがわかる人は?」と問いかけると、子どもたちはみんな右の人差し指を立ててあげる。これはドイツでも、まったく同じだそうだ。

 

なぜか? もし、日本のように挙手した場合、その角度がやや前方に傾いたら、ナチ式の敬礼に見えてしまうからだ。

 

指を上げるのは子どもばかりではない、大人も同じだ。会議中に発言するとき、レストランでウエイターを呼ぶとき、あるいは、マルシェでちょっとお願いと言うときなども、みんな人差し指を立てているのだ。

 

 

 

■知らずにうっかりパーを挙げると大変なことになる

 

かつてギリシャのサッカー選手が観客に向かって右手を斜め前に挙げるポーズをしたため、代表チームから永久追放になった事件があった。

 

ナチの犠牲になった人々に対する敬意を欠き、スポーツマンらしくないとされたのだ。件の選手は戦争を知らない若い世代で、自分はファシストではないと弁明したが、許されることはなかった。

 

ヨーロッパに行ったら挙手には注意が肝心だ。日本ではOKでも、海外に出たらタブーがあることは覚えておかなくてはならないだろう。

 

 

 

■ユダヤ人の子どもたちが残した多くの絵が書籍化

 

ホロコーストで犠牲になったユダヤ人といえば、まずアンネ・フランクを誰もが思い浮かべる。

 

隠れ家で書き続けた日記が彼女の死後、生き残った父親によって出版された。この『アンネの日記』は世界のベストセラーになったのはいうまでもない。

 

作家になりたかったアンネの夢は死後に叶えらることになったが、それでも「ただユダヤ人というだけで……」どれほど無念だっただろう。ナチスはたくさんのユダヤの子どもたちの未来を奪ったのだ。

 

『15000人のアンネ・フランク テレジン収容所に残された4000枚の絵』(野村路子・著/径書房・刊)は、アウシュビッツへの中継収容所から発見された子どもたちの絵に出会い、それに魅せられた著者が、日本で<テレジン収容所の幼い画家たち展>を開催するまでを詳細に記録した本だ。

 

展覧会は25年前の1992年に日本全国を巡回、その後、「もう一度あの絵を見たい」という要望が多く、150点はその後、埼玉県平和資料館に寄託され、現在も貸し出しを続けているそうなので、見られる機会はあるだろう。

 

 

 

■収容所の画家たちはナチスの絵を描かされていた

 

4000枚の絵はテレジン収容所から生還したビリー・グロアー氏によって見つけ出された。

 

ビリーさんは、テレジン収容所で子どもたちの生活を見ていた人だ。子どもたちが、腹を空かし、父や母に会えない淋しさに三段ベッドの毛布にくるまって泣いていたのも、つかの間、楽しかった家の食卓を思い出し、大好きだった人形劇を思い出して目を輝かせていたのも、すべて見ていた―― その子どもたちがもう帰って来ないことも。そして、テレジンが解放された日、見つけ出した四〇〇〇枚の絵をトランクにつめて、プラハに持ち帰って来たのだ。
(『15000人のアンネ・フランク テレジン収容所に残された4000枚の絵』から引用)

 

テレジン収容所には画家や画学生、哲学者、文学者、音楽家など著名なユダヤ人が多くいたそうだ。

 

そのため、ナチスは“ユダヤ人は恵まれた環境の中で安隠に暮らしている”ということを国際的にPRするために、画家たちにナチスの指示の図柄を強制的に描かせていたという。

 

それは、ひとつの強制労働だったのだ。もし、真実の絵を描き、見つかれば、その先には拷問、そしてアウシュビッツ送りが待っていた。

 

 

 

■子どもたちが命がけで描いた絵がつまっている

 

ビリー氏はテレジン収容所で子どもたちの世話係という仕事を与えられていた。

 

何とかして子どもらしい時間をもたせたいとドイツ軍に交渉をし、やっと労働の後、集まって歌うこと、ゲームをすることだけは許されたのだそうだ。しかし、勉強や絵を描くことは駄目だった。

 

けれども芸術家の大人たちは子どもたちの教育のために立ち上がったのだという。

 

彼らは、一日の激しい労働で疲れていたけれど、<子どもの家>に出かけて教育をしたのです。もちろん内緒でです。絵を描いたり、詩を教えたりしました。見つかれば罰せられますから、私も必死でした。監視のドイツ兵が来たらすぐ合図をするのです。そうすると、みんな紙や鉛筆やクレヨンを隠して、大きな声で歌を唄ったものです。
(『15000人のアンネ・フランク テレジン収容所に残された4000枚の絵』から引用)

 

子どもたちに絵を描かせたのは戦前からワイマールの総合芸術学校、バウハウスで活躍していた画家のフリードル・ディッカー。彼女は子どもの持っている想像力を生かそうとしたという。

 

収容所の生活では、ストレスがあって、子どもたちは自由に精神を遊ばせることができなくなっていましたから、まず、それをときほぐしてあげねばならない――心が自由になれば、元来持っている創造力が動き始めます。それぞれの子どもの個性を伸ばし、その子に合った絵が自由に描けるようにしてあげるというのが彼女の考えでした。
(『15000人のアンネ・フランク テレジン収容所に残された4000枚の絵』から引用)

 

遊園地のメリーゴーラウンドの絵、花咲く野とその上を飛ぶ蝶の絵、赤い屋根とそこへ続く一本道の絵、太ったおばさんが店を開く市場の絵などには、子どもたちの夢や願望が描かれていた。

 

いっぽう、番号が付いた三段ベッドのある部屋の絵、鉤十字を胸に着けた棍棒を持つ男の絵、首を吊られるユダヤ人の絵など、嫌悪と憤りを表わした絵もある。

 

テレジン収容所にいた15000人の子どもたちで生き残ったのはわずか100人だという。ほとんどの子どもたちは絵を遺し、アウシュビッツのガス室で幼い命を奪われてしまったのだ。

 

第二次世界大戦中にあったホロコースト、その事実を私たちは決して忘れてはならない。

(文:沼口祐子)

 

 

 

【参考書籍】

 


15000人のアンネ・フランク テレジン収容所に残された4000枚の絵
著者:野村路子
出版社:径書房

 

アウシュビッツのガス室に消えた子どもたち。中継収容所から発見された絵は、子どもたちがこの世に書き残した、いのちの証だ。

 

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