【中年スーパーカー図鑑|BMW M1】本来のポテンシャルを誇示することなく消えた、悲運のBMW製スーパーカー

車・交通

大貫直次郎

BMWモータースポーツは、世界メーカー選手権の制覇という目的を果たすために新しいグループ5マシンの開発を計画する。タッグを組んだのはイタリアのランボルギーニ。シャシー設計はダラーラが主導し、内外装デザインはイタルデザインが担当。パワートレインの開発はBMWモータースポーツ自身が手がけた――。今回はBMW初のスーパースポーツ、「M1」の話題で一席。

 

 

 

【Vol.8 BMW M1】


1974年シーズンをもってヨーロッパ・ツーリングカー選手権(ETC)のワークス活動を休止していたBMWおよびBMWモータースポーツ(1993年に社名を「BMW M」に改称)。しかし、1976年になると新たなプロジェクトを始動させる。グループ5で行われる世界メーカー選手権(World Championship for Makes)への本格参戦だ。新規の専用マシンの開発コードは、“E26”と名づけられた。

 

 

■世界メーカー選手権の制覇を目指して――


BMWモータースポーツはニューマシンの車両レイアウトとして、戦闘力の高いミッドシップ方式の採用を決断する。しかし、社内ではこの分野のノウハウを持ち合わせていない。できるだけ早く、しかもスムーズにE26プロジェクトを進めるには――。BMWモータースポーツが選んだのは、ミッドシップスポーツカーの開発において優れた能力をもつイタリアの自動車メーカー、ランボルギーニとの提携だった。当時のランボルギーニは1973年に発生したオイルショックの影響をまともに受け、経営状態は逼迫。設計部門や生産ラインは半ば開店休業の状態にあった。新規のミッドシップスポーツの設計も、グループ4の規定である年間400台以上の生産も(グループ5とともにグループ4でのレース参戦も計画していた)、現状のランボルギーニなら可能だろう――BMWモータースポーツはそう考えたのである。

 

世界メーカー選手権の制覇のために生まれたM1。戦闘力の高いミッドシップ方式の採用するため、当初、この分野に長けたランボルギーニと提携して開発を進めていった

BMWモータースポーツとランボルギーニによる共同プロジェクトは、当初順調なスケジュールで進行する。シャシー設計についてはランボルギーニと関係の深いダラーラが担当し、マルケージ製の角型鋼管スペースフレームに前後不等長ダブルウィッシュボーンサスペンションをセットする。ビッグシックスをベースとする専用エンジンを縦置きでミッドシップ搭載するというBMWモータースポーツ側の要件に対応し、ホイールベースはこの種のモデルとしては長めの2560mmに設定した。架装するボディについては、デザインと製作ともにジョルジエット・ジウジアーロ率いるイタルデザインに任される。ジウジアーロは1972年発表のコンセプトカー「BMWターボ」のイメージを取り入れ、ミッドシップカーならではのシャープで流麗なフォルムや空力特性に優れるフラットな面構成などでスタイリングを構築した。ボディパネルの主素材には軽量化や生産性を考慮してFRP材を採用。空気抵抗係数(Cd値)は0.384と優秀な数値を達成した。


肝心のパワートレインに関しては、BMWモータースポーツが開発を手がける。搭載エンジンは実績のある3.0CSLと同様、量産型の“ビッグシックス”直列6気筒ユニットのブロックをベースにチェーン駆動の4バルブDOHCヘッドを組み込むという手法を採用する。ボア×ストロークは93.4×84.0mmのオーバースクエアとし、排気量は3453ccに設定した。型式はM88。エンジン高の抑制とレース走行時の極端な重力変化に対処するために、オイル潤滑機構にはドライサンプ方式を導入する。さらに、点火機構にはマレリ製のデジタルイグニッションを、燃料供給装置にはクーゲルフィッシャー製の機械式フューエルインジェクションを組み込んだ。組み合わせるトランスミッションは専用セッティングのZF製5速MTで、ロック率40%のLSDを介して後輪を駆動する。また、操舵機構にはラック&ピニオン式を、制動機構には4輪ベンチレーテッドディスク(前対向4ピストン/後対向2ピストン)を採用した。路面との接点となるタイヤは前205/55VR16、後225/50VR16サイズを装着。トレッドは前1550/後1576mmに仕立てた。

 

 

■紆余曲折を経て「M1」の車名で市場デビュー

 

エアコンやパワーウィンドウといった快適アイテムも装備。この種のスポーツカーとしては異例の実用性を備えていた

初期段階のE26プロジェクトは順調に推移し、1977年夏には試作車も完成する。この流れを見たBMWモータースポーツは当初の予定通り、1978年春に開催されるジュネーブ・ショーで完成車を披露する計画を立てた。しかし、実際のショーではE26は出品されなかった。ランボルギーニの作業が遅々として進まなかったのである。また、どうにか完成したプロトタイプも、BMWモータースポーツが求める水準には達していなかった。業を煮やしたBMW本体は、プロジェクトを推進するためにランボルギーニの買収を目論むものの、ランボルギーニの下請け企業などがこれに強く反発した。結果としてBMWは、1978年4月にランボルギーニとの提携を解消することとした。


暗礁に乗り上げたE26プロジェクト。しかし、ここでBMWモータースポーツは意地のババリアン魂を見せる。生産工程を変えて、何とかE26を完成させようとしたのだ。FRP製ボディはスタイリングを手がけたイタルデザインが製作。一方、シャシーについては2002カブリオレなどの生産で提携の実績がある独シュツットガルトのバウア社に製造を委託する。そして、最終の仕上げを独ミュンヘンのBMWモータースポーツが行うという、複雑だが致し方ない手法をとった。苦労を重ねて完成したE26は、BMW Motorsportの“M”を意味する「M1」の車名を冠して、1978年秋開催のパリ・サロンにてワールドプレミアを果たす。BMW初の本格的なミッドシップスポーツで、しかもイタルデザインとダラーラ、そしてBMWモータースポーツという各分野のスター企業がタッグを組んだモデルだけに、M1はたちまちショーの主役に昇華した。


市販版のM1は、この種のスポーツカーとしては異例の実用性を備えていた。ボディサイズは全長4360×全幅1824×全高1140mm/ホイールベース2560mmに設定。また、エアコンやパワーウィンドウといった快適アイテムも装備する。M88エンジンの最高出力はロードバージョンが圧縮比9.0によって277hp/6500rpmを発生。さらに、グループ4仕様は11.5のハイコンプレッションから470hp/9000rpmを絞り出す。グループ5仕様は排気量を3153ccとしたうえでKKKターボチャージャーを組み合わせた結果、最高で850hp/9000rpmを発揮した。最高速度はロードバージョンが262km/h、グループ4仕様が310km/h、グループ5仕様が360km/hと公表された。

 

F1のサポートレースとしてワンメイクの「プロカーチャンピオンシップ(BMW M1 Procar Championship)」を開催。当時のF1パイロットらが中心となって参戦した


意気揚々と市場に送り出されたM1。しかし、販売台数は伸び悩んだ。前述の複雑な生産工程は割高な車両価格(ポルシェ911の倍に近かった)につながり、しかも生産はBMWモータースポーツ本体がF1用エンジンの新規開発と製造に追われていたために月3台ほどがやっと。このままでは、グループ4の規定である連続12カ月に400台の生産をクリアすることは困難だった。打開策としてBMWモータースポーツは、シャシー製造を担っていたバウア社に最終工程の一部も委託する。また、M1がレースに参戦しないままで車歴を終える可能性があることを危惧して、ワンメイクの「プロカーチャンピオンシップ(BMW M1 Procar Championship)」を開催することとした。競技自体はF1のサポートレースとして催され、1979年と1980年にシリーズ戦を敢行。ドライバーは当時のF1パイロットらが中心となって参戦し、1979年シーズンにはニキ・ラウダ選手が、1980年シーズンにはネルソン・ピケ選手が年間チャンピオンに輝いた。プロカーチャンピオンシップに力を入れる一方、BMWモータースポーツはM1を駆って1979年開催のル・マン24時間レースのIMSAクラスに参戦する。使用マシンはポップアート界の巨匠、アンディ・ウォーホルがペイントしたBMWアートカー仕様のM1で、結果は総合6位と健闘した。


様々な努力の甲斐もあって、M1の生産台数は1980年暮れにどうにか400台をクリアする。本来は規定を満たすものではなかったが、モータースポーツにおけるプロカーチャンピオンシップでの貢献なども考慮して、FIAは特別に1981年以降のグループ4レギュレーションをM1に与えた。その後のM1は、世界各地のレースやラリーに地道に参戦。日本でもスピードスターホイールレーシングチームがM1を購入して耐久レースなどに出場し、その後オートビューレックモータースポーツに移動してスーパーシルエット・シリーズを制覇するなどの大活躍を果たした。


ようやく本格的なレース活動を行えるようになったM1。しかし、時のモータースポーツ界の環境がそれを拒んだ。レースの主役が、グループ5からグループCに移行しようとしていたのだ。また、BMWモータースポーツ本体も軌道に乗ったF1用エンジンの進化と製造に忙殺された。最終的にBMWモータースポーツは、1981年にM1の製造中止を決定する。本来のポテンシャルを誇示することなく、表舞台から姿を消した悲運のBMW製スーパーカー――。短い車歴における生産台数は、わずか453台(一説には447台)だった。

 

 

Kyrgyzdiaryのクルマ情報をInstagramで!
『car lovers by citrus』>>

この記事が気に入ったらいいね!しよう

citrusの人気記事をお届けします

SNSで記事をシェア

大貫直次郎

1966年型。自動車専門誌や一般誌などの編集記者を経て、クルマ関連を中心としたフリーランスのエディトリアル・ライターに。愛車はポルシェ911カレラ(930)やスバル・サンバー(TT2)のほか、レストア待ちの不動バ...

大貫直次郎のプロフィール&記事一覧
ページトップ