首都高が渋滞する原因は、1960年代の美濃部都政にあった!?

車・交通

 

東京近郊の高速道路網が名古屋や大阪のそれと大きく異なることを、認識している人はどれだけいるだろうか。

 

名古屋や大阪は、メインストリートである東名高速道路や名神高速道路の起点や終点ではなく、郊外を通過している。その後開通した高速道路も郊外で東名や名神と接続する。しかも名古屋周辺には東名の渋滞を緩和する新東名高速道路があり、大阪近郊をパスする新名神高速道路は3月18日に開通予定だ。

 

ところが東京だけは、周辺へ向かう高速道路はすべて東京の郊外が起点になっており、関越自動車道を除き、首都高速道路の都心環状線から伸びる路線と接続している。江戸時代の日本橋を起点とした5街道、つまり東海道、甲州街道、中山道、日光街道、甲州街道を今に蘇らせたようなこの構造ゆえ、東京近郊の高速道路は必要以上に多くのクルマを都心に招くことになった。

 

とりわけ慢性的な渋滞に悩まされていたのが都心環状線。周辺各地からやってくる多くのクルマを、片側2車線で捌くのはさすがに無理だった。名古屋や大阪の都市高速道路にも都心環状線はあるけれど、どちらも一方通行なので車線数は東京より多い。なぜ首都高速は都心環状線を一方通行にしなかったのか、個人的には不思議に思っている。

 

ともあれ都心環状線への交通集中が問題となったことで、首都高速は外側にもうひとつ環状線を作ることになった。これが中央環状線だ。当初は東側と北側だけだったが、近年山手トンネルが完成したことで、湾岸線を含めた環状道路が完成した。

 

すると新たな問題が起こった。都心環状線の混雑が緩和した代わりに、中央環状線の合流部分で渋滞が目立つようになったのだ。特に6号向島線が接続する小菅〜堀切ジャンクション間、5号線が重複する板橋〜熊野町ジャンクション間は、2本の路線が合流した500〜600m先で再び分岐する構造で、4車線から3車線に減った中で車線変更を急いで完了せねばならず、渋滞の名所になってしまった。

 

合流と分岐の間の距離をもっと離せば、ここまで渋滞に悩まされることはなかっただろう。2つの本線が立体交差するインターチェンジを作るという手法もあったはず。建物が密集した23区内で、自由に高速道路を作れるはずもないことは承知しているけれど、もう少し考えて設計してほしかった。

 

とはいえゼロから作り直すのは難しい。現状を生かしながら対策をしなければならない。そこで首都高速は、両ジャンクション間を3車線から4車線にすることにした。板橋〜熊野町間は2月25日に使用開始となっており、堀切〜小菅間は今月18日に開通する。これによってクルマの流れがどう変わるかは興味がある。しかし抜本的な対策とは言えないことも事実。もっとも効果的なのはやはり東京への一極集中を防ぐことだが、道路に限定するなら中央環状線と圏央道(首都圏中央連絡自動車道)の間に、もうひとつ環状線を用意する方法もある。

 

この計画、1960年代には早くも存在していた。ピンときた方もいるだろう。外環こと東京外郭環状道路のことだ。関越自動車道と常磐自動車道を結ぶ道という状況が長い間続いているので、環状道路だと思っていなかった人も、漢字を見れば理解するだろう。なぜ外環はいまだに一部しか完成していないのか。いろいろ調べてみると、昔の東京都の判断があとあとまで影響しているようだ。

 

当時東京都知事を務めていたのは美濃部亮吉氏。多くの人が将来を考え、外環の建設を理解していたのに、彼は環境悪化を懸念した少数住民の側に立ち、計画を凍結してしまった。その後建設予定地は宅地化が急ピッチで進み、ますます工事のハードルが高くなってしまった。大動脈である東名高速との接続はいつになるか、想像もつかない。もし外環が全線開通していたら、小菅〜堀切間や板橋〜熊野町間の渋滞はかなり減っていたことだろう。都市行政は長く広いビジョンで進めなければいけないことを改めて痛感した。

この記事が気に入ったらいいね!しよう

citrusの人気記事をお届けします

SNSで記事をシェア

モビリティジャーナリスト

森口将之

モータージャーナリスト&モビリティジャーナリスト。移動や都市という視点から自動車や公共交通を取材し、雑誌・インターネット・講演などで発表するとともに、モビリティ問題解決のリサーチやコンサルティングも担...

森口将之のプロフィール&記事一覧
ページトップ