ミキ・三木亜生、夢の漫才師になるまでの語られなかった真実

エンタメ

For M

 

一体、サラリーマンとはなんなのか。かつて会社勤めをしていた著名人たちが会社員時代を語る――。“名刺を捨てた男たち” は当時、何を考えながら働いていたのか。仕事へのモチベーション、プライベートとの比重、そして夢への挑戦……。

 

ひとつだけ言えるのは、全身全霊その職務に取り組み、中途半端な仕事はしなかった。そして、その経験が活きているからこそ、彼らの「今」がある。その核心にせまるべく、「For M」編集部は“名刺を捨てた男たち”に単独インタビューを敢行した。

 

ポンポンと歯切れのいい漫才を繰り広げ、ブレイク中の「ミキ」。特に女性に圧倒的な人気を誇るのが弟の亜生だ。彼は当初イルカの調教師を目指していたが、大学卒業後介護の会社に就職し、シルバー世代にも人気者だったらしい。さすがのモテ男。人たらしの亜生である。しかし、一体何がどうして「イルカの調教師→介護職→漫才師」となったのだろうか。まだメディアで語ったことのない、亜生が芸人になるまでの軌跡を語ってくれた。

 

漫才師・三木亜生

 

1988年生まれ、京都生まれ。東海大学海洋学部卒業後、訪問介護の仕事に就き、介護士として地元の企業に就職。退職後、2012年に漫才コンビ「ミキ」を結成。相方の昴生は実の兄。2016年には数々のお笑いコンテストでタイトルを勝ち取り、2017年「M-1 グランプリ2017」では決勝に進出、第3位に輝いた。Instagramのフォロワーは25万フォローを越え、若者から支持も厚い。

 

 

 

■プランクトンとともに過ごした海洋学部の日々

 

「僕ねえ。ほんまはイルカの調教師になりたくて、専門学校に行こうと思っていたんですよ」

 

人懐っこい笑顔で話し始めた亜生。舞台上と素顔はあまり変わらず、人気があるのはこの笑顔かとすぐに納得がいく。

 

「でも両親が大学は出ときなさいって。夢が変わるかもしれへんって」

 

「行かせてもらえるなら行ったろ」。そんな気持ちで日本で唯一海洋学部のある東海大学に入ったものの、受かったのは海洋地球科学科。通称、小型生物だ。イルカの調教師になるためには大型生物を扱う海洋生物学科に入らなければならなかったが、ちょっと違った。

 

2年次に転科するつもりで入学したものの成績優秀者でなければ転科はできず、大型生物どころかプランクトンなどの微生物などについて4年間学ぶことになる。

 

「学科で1番じゃなければ転科は無理やと言われて、ほなしゃあないなと4年間小型生物について学びました」とニコニコ。

 

「海洋生物科は、めっちゃ人気があるんです。卒業したらイルカの調教師になったり、動物園や水族園で働くこともできますし。なぜか海洋生物科はかわいい女の子ばっかり。僕らの学科は、男ばっかでした(笑)」

 

目指すところに行けなかったとしても、そこでまた楽しみを見つけるのが ”亜生流” だ。

 

「小型生物もおもしろかったですよ。1週間船に乗って漁をしたり、小動物の解剖をしたり、いろいろやらしてもらいました。楽しかったですね。

 

日本でもっとも水深の深い駿河湾の真ん中まで行って、4000mまで網落としてぶわーっと水揚げするんです。海底にいるプランクトンをみんなで顕微鏡で見て『こんなんありましたー!』と大騒ぎしたりして(笑)」

 

亜生の話を聞いていると「めっちゃ楽しかった」という言葉が頻繁に出てくる。人生を楽しむ達人なのだろうか。当初目指していた海洋生物科に行けなかったと言って腐ることもない。小型生物には小型生物で「楽しいこと」がたくさんあったからだ。

 

イルカの調教師を目指すのはあきらめた亜生。それならば、大学卒業をするまでに好きなことを見つけて働こうと考える。

 

 

 

■フットサル大学選抜でプロの道を目指す?

 

次に職業として亜生が考えたのはフットサル選手だった。入学した東海大学は静岡にあり、サッカーやフットサルが盛んな土地柄だ。もともとサッカー少年だった亜生はフットサルに夢中になる。センスが良いのかぐんぐん力をつけた。静岡県の大学選抜に選ばれ、フットサルの選手になろうかという考えがちらつきだす。

 

「3つ上の先輩にもFリーグの選抜に行かはった人がいたんで、僕もフットサル選手になろうかなと思いました。でもいろいろ調べたら、自分の技術的にも、当時のフットサル業界のシステムから言っても、フットサルで飯を食えている人はごくごく一部の人たち。食べていくのはちょっと厳しいなと。芸人と、フットサル、どちらもちょっと一か八かみたいなところがありましたね」

 

実は、芸人になりたいという気持ちも昔から持っていた。しかし大学1年のときには、兄が芸人としてデビューする。そのときは「あぁ、やられてしもうた」という気持ちだったという。

 

「僕もやりたいなぁと思っていたんですけれど、母親が反対をしていました。それを押し切って兄がなってしまったので、あぁ、ほんなら2人目は絶対無理やと思ってしまったんです」

 

イルカ調教師になる夢をあきらめ、フットサルも芸人も無理そうだ。「じゃ働こか」と。就職先を選ぶポイントは3つ。「地元で働く」「事務ではなく接客」「土日休み」。職種は何でもよかった。そして、いくつか受けたなかで、一番最初に内定をもらった会社に就職を決めた。そこは訪問介護の会社だった。

 

 

 

■介護って自分に向いているかも

 

亜生は、約1年間介護会社に勤めたが、これも「めっちゃ楽しかった」と語る。

 

「ほんまに、介護っていい仕事やなと思う。直接『ありがとう』って言ってもらえますもん。ていねいにしてあげたら、それだけ返って来るんです。めっちゃえぇなって。で、自分には向いてるんかなって思いました」

 

おじいちゃん、おばあちゃんから人気もあり、気難しい「要注意人物」の懐にも、スっとはいってしまう魅力が亜生にはあった。実際、どのスタッフも出入り禁止の家に、亜生だけは入れるという例もあったという。

 

ただ、毎日が大変な重労働だった。訪問入浴は営業車にお風呂を載せて訪問し、お宅に簡易にバスタブをセットして、体の自由が利かない人の入浴を介助する。着替えをさせて髪の毛を乾かしてお湯を抜いたら、また次の家へ。それを1日8軒回っていく。8軒回るためにはそれなりにスピーディーに事を運ぶ必要があり、道順、手順を考え、効率よく進めても昼食をとる暇もない。

 

お宅に行って、お年寄りと触れ合うのは楽しい。しかし、余裕のない重労働に、次第に亜生から笑顔が消えていく。

 

半年ほど経ったときに、これを一生続けるのは無理かもと感じ、父親に相談する。

 

「『ちょっとだけ、芸人をやりたいなぁって思ってる』って父親に言ったら、『お前がやりたいと思うことやれ』って言ってくれたんです。『30までやったら、何やっても取り返しつくから』って」

 

父親は「やりたいという気持ちを抑えて、そのまま仕事するのは無理だぞ」と背中を押してくれた。そう言われ、スッと気持ちが楽になった亜生。そこから半年後に退職するまでは、とても気持ちよく楽しく働いたという。

 

1年間働いた結果、退職をする。

 

 

 

■ショップ店員として内定をもらうも…「ちゃうちゃう!」

 

退職をして、すぐに芸人になったのかと思えばそうではない。亜生は、まだ芸人という職業が、自分の人生を賭けるべき職業なのかどうか迷っていた。

 

意外と亜生は、現実派なのだろう。ロマンチストではなく、現実を受け止めあきらめも切り替えも早い。そして自分があるべきところで咲くことを知っている。

 

介護職を辞めた時点で、亜生はまだ自分のいるべき場所を見つけられていなかった。

 

「介護会社を辞めて、いったん兄に芸人になりたいと相談したんです。当時付き合っている女の子がいることも伝えたら兄には、『結婚した方が幸せちゃうか? 1回よう考えてみ』と言われました。そこで、ほなちょっと会社でも受けとこうかなと思ったら受かったんです」

 

素直なところも亜生の魅力のひとつだ。

 

まだ母の反対を押してまで芸人になる覚悟のなかった亜生は、再び就職活動をして、人気アパレルショップ「ベイクルーズ」に内定が決まる。そこで最初の体験研修も受け、後は書類に正式なサインをするだけとなった。そのときのことを亜生は語る。

 

「ちゃうちゃうちゃうちゃう。ちゃうけどもう内定断れへんやん。で、あーもうちゃうちゃうちゃうちゃうってなって、『コレ、入社の手続きです』と紙を渡されたときに、あぁもうこれ無理や。やめようと。家に帰って母親に言いました。『ごめん。俺芸人になりたいねん』って」

 

こうして、亜生は内定を断り、翌日大阪の兄のもとへ向かう。

 

 

 

■お兄ちゃんが芸人になったから僕はなれない

 

亜生は己の生き方と、初めて逆行することをしたのかもしれない。それまでの亜生は、ぼんやりと希望があっても現実的に難しいとなるとさっとあきらめて、切り替える。できる範囲で楽しみを見つけて、周りも巻き込んでハッピーにしてしまうという生き方。心根が優しいのだろう。その亜生が初めて周りと波風を立ててでもやり通したいと思ったことが「芸人」だった。

 

しかし、母親は息子たちが芸人になることをずっと反対していたため、亜生が相談していたのはいつも兄か父。母がそこまで反対していたのは、なぜだろうか。

 

実は母は関西芸人の雄、上岡龍太郎の妹だった。芸人の、そして芸人の家族の苦労を嫌というほど知っていた。ミキは、上岡龍太郎が叔父であることを下積み時代は隠しており、公表したのは2017年のことだ。

 

「『売れることがどれほど大変か。変なしがらみに捕らわれて、思うように生きられないのではないか』と、お母さんは思っていたんだと思います。芸人の世界を知っていましたし、2人の息子に芸人になることを許さなかったのでしょう」

 

けれども兄は母親の気持ちを振り切って芸人となり、今また弟もその道を歩もうとしている。母が 『兄に続いて弟もか』と大泣きしたというのも無理はない。亜生もその母の思いを知っているからこそ、兄が芸人になった時点で芸人への道をあきらめていたのだ。

 

取材当日は舞台の間の時間を使って、弟・亜生の単独取材。しかし、偶然通りかかった兄・昴生に撮影のお願いすると快くスタンド・イン。気さくに応じてくれた。

 

 

■大阪の兄のもとへ。オーディションで吉本入り

 

とはいえ、母も亜生に元気がないことを気にかけ兄に相談しており、亜生が「お兄ちゃんのところに行く」と言ったときには、安心したそうだ。しかしそれは後になって分かる話。

 

亜生は、もう迷わなかった。23歳の初春のことだ。

 

亜生が大阪に着いたとき、兄はコンビを解散してちょうどひとりになっていた。その前からちょくちょくと相談をしていたこともあり、兄は「おぉ来たか」と迎えてくれた。

 

2012年4月。2人は「ミキ」を結成する。結成したとはいえ、もちろんすぐに仕事はない。道路交通整備、駐車場などでアルバイトを続けつつ、吉本のオーディションを受け続け、2カ月で合格し、吉本興業の所属となる。多くの場合、吉本の養成所「NSC」に入学しお笑いを学ぶところ、数百組に1組という狭き門であるオーディションを突破して吉本興業所属となった。これは圧倒的な早さだった。

 

 

 

■「僕ら売れるやろ」。手ごたえはあった

 

2012年にコンビを結成して4年間。吉本興業の収入だけでは食っていけるわけもない。夜のバイトが終わってからネタ合わせ。次の日、夕方から舞台。舞台が終わったら、バイトをしてネタ合わせ。ずっとそんな生活が続いていたが、不思議と不安はなかった。

 

「どこかで2人とも、『いやいやもうそろそろ、僕ら売れるやろ』って手ごたえはありましたね。ただめぐり合ってないだけで、チャンスに」

 

その圧倒的な自信の根拠は、現場での反応の良さだった。ウケている。間違いない。あとはめぐり合わせだ。それを掴めばいいだけだ。兄は2016年にアルバイトを辞めた。これは「チャンスを逃さぬよう」とか、「満を持して」という気持ちであったのかもしれない。

 

そして、チャンスはついにやってきた。兄がアルバイトを辞めて1カ月後に出演したのが「2016年NHK上方漫才コンテスト」である。そこで「ミキ」は優勝した。

 

「ようやくひとつ取れたなと。頭ひとつ出て、みんなに知ってもらえるきっかけになりました」

 

その後の活躍は、多くの人が知る通りである。2016年は「NHK上方漫才コンテスト」のほか、「第1回上方漫才協会大賞 新人賞・トータルコーディネイト賞」「27時間テレビ 27時間フェス 笑わせたもん勝ちトーナメント KYO-ICHI 優勝」と飛ぶ鳥を落とす勢いは続き、2017年には 「M-1グランプリ2017」で 決勝進出を果たし、3位入賞を果たした。

 

 

 

■今では母親が一番のファン

 

吉本興業に入ってから4年間の下積み時代を母は知らない。芸人をやっていることは知っていたが、吉本興業に入ったことも漫才をやっていることもコンビ名も知らせなかった。たまに実家に帰ってもお笑いの話はタブー。

 

母がキッチンに立って炒め物をしている音に紛れて「どうや、最近」と父がコソっと聞く。「今、2軍ってとこや」とコソっと答える。そんな状況だったという。

 

そんな母も、今では父とともに一番の応援団だ。地元の回覧板にミキのスケジュールを載せ、地元ロケでは近所中に声をかけ、人だかりができる。出待ちで一番前に並んでいたのが母だったことも。

 

初めて息子たちの漫才を見たときに「学芸会の延長かと思ったら、ちゃんと漫才やっとった」と涙ながらに語ったという母にとって、何より嬉しいのは息子たちの活躍に違いない。

 

紆余曲折の末、漫才師として、揺るぎない地位を獲得した「ミキ」。その紆余曲折は決して無駄にはなっていない。何より大きいことは亜生には「会社員として働く人たちの気持ちが分かる」ということだ。

 

「いやなこと、興味のないことばっかりさせられている人もいるじゃないですか。これ、大変だと思います。僕らはまだ好きなことやらしてもらっているんで」

 

スタッフに対する気配りや外部の人への心遣いが自然とできるようになったこと。そして「まじめなときにはまじめにやらなあかん」と分かったこと。

 

「『まじめに』というのは『真剣にやる』ということだと思うんです。社会人ってこういうもんなんやと会社で教えられました。僕はすぐにちょけてしまうタイプなんで……芸人だからといっておちゃらけていればいいというわけではないですもんね」

 

終始、にこにこ笑顔だったが、最後にちょっとだけキリっとした顔を見せてくれた。

 

 

弟・亜生が語る兄・昴生◆4つの証言

舞台では、天然の弟にイライラして甲高い声で突っ込みまくっている兄・昴生。どんな兄なのだろうか。兄への愛たっぷりの弟の証言を聞いてほしい。


≪証言1≫
成績が悪いのは、効率が悪いから


お兄ちゃんも大学出てますけど、めっちゃ成績悪いです。子どものときから。僕は社交的だから、先生とか頭のいい子とかいろいろな人からやり方を教わって、それなりにできちゃう。でもお兄ちゃんは、効率が悪い。自分で独自に勉強して失敗して点数悪い。そんな人です(笑)。


≪証言2≫
高卒でNSC入りはあきらめて大学へ


お兄ちゃん、高校出たらNSC行きたいって母親に言ったんです。でも高校の三者面談で、唯一お兄ちゃんが慕っていた先生に「大学行ってからでも遅くないんじゃないか」と言われて「それやったら、ちょっと大学行ってみるか」いうて大学に行きました。AO入試の小論文で受かりました。


≪証言3≫
もっと面白いのに、なんで売れないの?


お兄ちゃんは芸人になって2年目のときにコンビを解散したんです。で、そこから2年、コンビを組んでは解散し、組んでは解散し、結局アルバイト生活みたいなことをしていました。それを見ていて、あぁなんかもうちょっと、もっと、何とかならへんの? お兄ちゃん、もっとおもろいのに。歯がゆいな。何でこんな売れへんの、と思っていました。だからお兄ちゃんと組めるとなったときは、ラッキーと思いました。


≪証言4≫
「お前が芸人だったらなー」的なラブコール


母が反対していたので、お兄ちゃんも僕に「芸人になれ」と強くは言えなかったんです。でも間接的なラブコールはくれていたかな。僕が働いているときも「お前、おもろいな。芸人なれんちゃうか」「お前芸人なったらえぇとこ行くぞ」「えぇなぁ、なんなんその話。めっちゃおもろいやん」としょっちゅう言ってくれました。僕も芸人になりたいという気持ちがあったから、お兄ちゃんがくれた言葉はいちいち覚えているんです。昔は「すべらない話」みたいなのを、実家で2人で朝までずっとやったりしてました。


どうだろう。出てくるエピソードは、要領のいい弟と不器用な兄の、お互いを見つめるあたたか~な兄弟愛。喉から手が出るほど「いっしょに芸人やろう!」とストレートに言いたかっただろうに、お兄ちゃんは母親を思ってそれが言えず、遠回しのラブコールしかできなかった。しかし、弟はしっかりとそのラブコールを受け取っていた。


「ミキ」がコントではなく、漫才一本でやるようになったのは、亜生がコントでもつい「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と言ってしまうからだそうだ。その本質は、兄弟愛そのものにあったのだ。

 

(写真:山田英博 文:宗像陽子)

この記事が気に入ったらいいね!しよう

For Mの人気記事をお届けします

SNSで記事をシェア

For M

For M

現代の男たちに足りないもの、それは「熱」。 仕事・遊び・趣味・恋愛に、何事も全力投球でまっすぐな熱さを持って打ち込む。そんな“熱男”こそ、我々が目指す“現代の伊達男”だ。 For Mでは...

For Mのプロフィール&記事一覧
ページトップ