【ヘンなアニメ会社・タツノコプロの秘密】随分小ッチャイ会社だね、2メーターの会社って…

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日本が世界に誇るアニメ制作会社「タツノコプロ」。ユーモア満点のギャグ作品からシリアスなSF作品まで手がける守備範囲の広さ、コンテンツのオリジナリティは、現在においても唯一無二であろう。本連載では畏敬の念を込めて、そんなタツノコプロを“ヘンなアニメ会社”と称し、黎明期からの歴史を貴重な資料とともにお届けする。

 

55周年というメモリアルイヤーを迎えた同社の誕生時からその身を置き、現在までを見てきた「ささやきレポーター」こと笹川ひろし氏──『タイムボカンシリーズ』『ハクション大魔王』など不朽の名作を監督した“ギャグアニメの帝王”である。今回寄せられた原稿は、2018年に氏が書き下ろしたもの。ささやきレポーターの姿を借りて、本当にあった現場での話をユーモアたっぷりにしたためている。

 

さあ、ちょっと変わった、楽しさいっぱいのアニメ会社・タツノコプロの魅力を掘り下げてみよう。第1回は、いまから遡ること56年前……タツノコプロが生まれた瞬間、一体、何が起きていたのだろうか?

 

 

~第一回:吉田三兄弟との出逢い・会社設立(1962年)~

昔、昔、それほどもない昔、・・・或るところに漫画家の三兄弟(※1)がおったとな。都心からチーとばかり離れたところに普通の家があってそこが三人の仕事場だった。そこにもう一人の漫画家(※2)がやってきて、仲良しになったとか。そして四人になって、漫画家談義をしているうちに、「漫画もいいがアニメちゅうものも面白そうだし、将来はきっと雑誌の漫画を追い抜き、アニメ文化がやって来るかもな」。

 

なーんて話になって、とうとう自分達もアニメを創ろうってことになってしまったんだそうな。これが、タツノコプロの創生だった。

 

アニメ造るには大勢の人手がいるので 、早速募集をすると、吃驚するほど人が集まったのだ。

 

ある日、昼食に出前を頼もうとして、初めてのラーメン屋さんに電話をしたらぜんぜん通じない。大量に注文をしたからか?と思ったが、そうではなかった。

 

「こちらタツノコプロですが・・」「ええ、タツノコ風呂?」「違いますよ、二丁目の漫画家の家です」「ええ、真ん中の家?」「違うー、アニメーションの会社で、・・」「ええ? 、随分小ッチャイ会社だね、2メーターの会社って・・・」「ん・・もう、いいです!」

 

 

まだ、アニメと言う言葉も、タツノコプロの名前も、まったく知られていない頃の話だけど、それから50数年後、アニメ文化は確実に花が開いた。タツノコプロも少しは有名になったかも…。

 

 

文・イラスト:ささやきレポーター(笹川ひろし)

 

■“漫画家の三兄弟” 彼らこそ日本アニメ界の先駆者だった

エッセイの冒頭に登場する「漫画家の三兄弟」とは、創業者である“吉田三兄弟”のことだ。長男の吉田竜夫氏、次男の吉田健二氏、三男の吉田豊治氏の3人。これから日本のアニメ時代を創り出す三兄弟──まるでマンガか小説のようにドラマティックな設定だが、3人が本当の兄弟なのは事実だ。

 

写真左から、三男・吉田豊治(九里一平)、長男・吉田竜夫、次男・吉田健二。タツノコプロの豊富なアイディアと人気、そして成功の秘密は吉田三兄弟のクリエイティビティにある。そのスタートとなったのが『宇宙エース』(写真手前)

 

吉田竜夫氏は、タツノコプロの初代社長を務める。1950年代に漫画家としてデビュー。その後、笹川氏のエッセイが描いたとおり、大きな夢と共にタツノコプロを設立した。経営者であり、作品の原作者でもあった。

 

次男は吉田健二氏。第2代社長を務めた。キャリアのスタートは漫画家だったが、タツノコプロの設立後は、主にプロデューサーとして会社の発展に尽くした。三男の九里一平(ペンネーム)こと吉田豊治氏も漫画家だった。第3代社長を務めながら、多くの作品に監督、キャラクターデザイン、プロデューサーとして参加。その多才ぶりには、驚かされるばかり。

 

兄弟であり、それぞれが個性の異なるクリエーター。3人が団結し、才能を掛け合わせることで、とてつもないパワーを生んだ。3人よれば3倍でなく、6倍、9倍……。それがタツノコプロの原動力だったのだ。

 

そんなタツノコプロのスタートを飾ったのが、1964年5月にテレビ放送を開始した『宇宙エース』。宇宙船からはぐれて、地球に辿り着いたパールム星人の少年エースが大活躍するSFアドベンチャーだ。

 

のちにタツノコ作品の特長のひとつになっていく、時代を先取りしたドキドキする設定、SFガジェットや未来志向のしゃれたデザインなど、魅力を満載していた。タツノコプロを語るうえで欠かせないこの『宇宙エース』については、以降の連載でもくわしく解説できればと思う。

 

 

■まだ「アニメーション」という言葉も知られていない時代

1962年と言えば、高度成長期と呼ばれ日本が急激な経済発展を遂げていた時代だ。

タツノオトシゴでお馴染みのロゴ。上は設立当初のもの。下は現在のロゴ。設立から56年、日本有数の歴史を誇るアニメ会社である

当時の人々の最も大きな楽しみのひとつがテレビだった。テレビ放送が始まったのが1953年、タツノコプロが誕生したのはテレビアニメシリーズの放送がスタートしたのは1963年──つまり、テレビアニメ時代が始まったばかりのころ。

 

「こちらタツノコプロですが・・」「ええ、タツノコ風呂?」「違いますよ、二丁目の漫画家の家です」「ええ、真ん中の家?」「違うー、アニメーションの会社で、・・」「ええ? 、随分小ッチャイ会社だね、2メーターの会社って・・・」「ん・・もう、いいです!」

 

ラーメン屋の出前の電話で、こんなトンチンカンな会話になるのも仕方ない。ささやきレポーターが記録している通り「アニメ」という言葉も人々に知られておらず、アニメの制作会社なんてほとんどない時代だ。そんななか、いち早く世界のこどもたちが楽しめるエンタテイメントをアニメで作ろうと決意したのがタツノコプロだったのだ。

 

実際に、タツノコプロはテレビの前の視聴者を熱狂させるアニメを次々と生みだした。会社設立から3年後の1965年には、最初の作品となる『宇宙エース』が放送開始、大人気を博した。さらに1967年には、その後世界各国に輸出される『マッハGoGoGo』が、そこから現在まで途切れることなく、常に新しいアニメを世に届け続けている。『科学忍者隊ガッチャマン』『タイムボカンシリ-ズ』『新造人間キャシャーン』……。どれもいまでも愛され続けている作品だ。

タツノコプロは、数え切れないほどの傑作を世に届けた。いまも絶大な人気を誇る『科学忍者隊ガッチャマン』もそのひとつ

なかでもタツノコプロの特長は、原作を小説や漫画に求めるのではなく、企画段階からオリジナルの作品を創り出すことだった。まだ誰も見たことのないキャラクターやストーリーがテレビにいきなり登場するのだから、当時の子どもたちが、どれだけドキドキしたか想像がつくだろう。

 

 

■ところで「ささやきレポーター」ってナニモノ?

さて、今回“知らざれるタツノコプロ”を報告してくれている「ささやきレポーター」こと、笹川ひろし氏はどんな人物なのだろうか?

 

笹川ひろし氏。1978年、鷹の台スタジオでの一枚

笹川氏もまたタツノコプロの歴史のキーパーソン。漫画家としていくつものヒット作を持っていた笹川氏だが、60年代はじめにアニメにふれたことからアニメ創作にハマる。そこで吉田三兄弟と出会い、タツノコプロのアニメ制作には当初から参加してきた。吉田三兄弟と共に、タツノコプロを支えていくことになる。

 

もとが漫画家だから、キャラクターを考えたり、ストーリーを練ったりは言わば専門分野。そのセンスと情熱が、新しい可能性を持って登場したアニメの制作に向けられた。

 

『宇宙ノミダー』。笹川ひろし氏の漫画の代表作。少年向けに描かれたSFテイストのコミカルな作風から笹川氏の参加したアニメの特長に通ずるものを見てとれる

 

 

 

笹川氏の参加した作品には、きら星のようなタイトルが並ぶ。『宇宙エース』の監督をはじめ、『おらぁグズラだど』といった代表作、『ヤッターマン』で多くの人が知る「タイムボカンシリーズ」も、長年支え続けた。タツノコプロの得意とする数々のギャグアニメは、笹川氏がいたからこそ生まれたものだ。

 

タツノコプロの始まりからスタートしたこの連載。数々の知られざる歴史的現場に居合わせたささやきレポーターのエッセイと共に、今後さらにその変遷と秘密を追っていく。ぜひご期待いただきたい。

 

 

【つづく】

 

©タツノコプロ

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アニメジャーナリスト

数土直志

ジャーナリスト。国内外のアニメーション関する取材・報道・執筆を行う。また国内のアニメーションビジネスの調査・研究をする。「デジタルコンテンツ白書」アニメーションパート、「アニメ産業レポート」の執筆など...

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