人生は儚く、短い。サンドウィッチマン伊達みきおをお笑いへと導いた介護の日々

エンタメ

For M

 

一体、サラリーマンとはなんなのか。元会社員である著名人たちが会社員時代を語る。"名刺を捨てた男たち"は当時何を考えながら働いていたのか。仕事へのモチベーション、プライベートとの比重、そして夢への挑戦……。

 

ひとつだけ言えるのは、全身全霊その職務に取り組み、中途半端な仕事はしなかった。そして、その経験が活きているからこそ、彼らの「今」がある。その核心にせまるべく、「For M」編集部は“名刺を捨てた男たち”に単独インタビューを敢行した。

  

M-1グランプリで「敗者復活戦」からの優勝という偉業を成し遂げ、一夜にしてお笑いのメインストリームにのし上がった「サンドウィッチマン」。ツッコミ・伊達みきおをお笑いの世界に導いたある人の「死」とは。

 

高校卒業後、介護に従事しやりがいのある仕事を手にして、将来安泰な職場を見つけたにもかかわらず、なぜ茨の道を進んだのか。人生の分岐点で“逆の選択”をした理由と40代からの人生を、伊達みきおが熱く語る。

 

 

■女の子と知り合いたい一心で進路を決めた

 

「高校時代は男子校でラグビー部ですから、とにかく女の子の友だちがいないわけです。なんとか知り合いたいとチャンスを求めて、高校3年生の夏に参加したのが、女子が多いと評判のボランティア研修でした」

 

伊達みきおさんがサラリーマンとして5年間を過ごしたのが介護の世界。なぜ福祉関連の仕事を選んだのか、その理由を尋ねると、当時の男同士の友情や、その当時のできごとを一緒に思い出しているのだろう、楽しそうに答え始めた。

 

「同じ学校の男ばかり4~5人で参加しました。誤解してほしくないのは、2泊3日の研修自体はとてもきちんとした団体が運営している真面目なものだったということ。

 

確かに当初、僕らは女の子が目当てでしたけど、介護や手話を習い、実際に現場でお手伝いが必要な方々と接していくうちに、たった2泊3日の体験でしたが、『人と接する仕事は面白い』と思うようになったんです」

 

その後、バイト先として選んだのは介護用品を扱う会社だったこともあり、同級生に先んじて、働いて「ありがとう」と言われる喜びを知った伊達さん。素直にその気持ちを持ち続けて、卒業後は福祉関連の専門学校へ進学する。

 

しかし3か月で中退することに。福祉関連の学校では女性が7~8割以上を占めるといっても過言ではない。伊達さんが入学した学校も例に漏れず、8割が女性だった。女性の友だちがほしいはずが、あまりに多くの女性に囲まれるのは伊達青年にとってギャップがありすぎて、かなりしんどい体験だったようだ。

 

そして言いにくそうにひと言「……ダンスの授業がね……」。なるほど、18~19歳という多感な年ごろの男子が、女性に囲まれてダンスなど、その辛さは想像に難くない。

 

「辞めちゃったんです、3か月で。なにか釈然としないというか、もう働いた方がいいんじゃないかって思ったんですね。そのままバイト先だった会社に入社しました。

 

バイト先といっても自分で選んだわけじゃなくて、オヤジが知り合いの会社を紹介してくれた――まぁ、つまりはコネ入社ってわけです」

 

 

 

■毎日2時帰宅。「ありがとう」に支えられた

 

伊達さんの仕事は介護用品関連の営業だ。おむつをはじめとする消耗品を販売したり、ベッドやトイレなどの大型家具のレンタル、ときには手すりやスロープの設置を請け負うこともある。商品を扱うだけでなく、家具類が入るかサイズを測ったり、行政との折衝も不可欠だ。

 

「とにかく忙しかったですね。急激に老人ホームが増えた時期ということもあって、毎日の帰宅時間が2時。だってボクひとりで郡山全域を担当していたんですよ。

 

いつもあっちへこっちへとクルマを走らせてましたよ、ナビもない時代にね(笑)。雪道をひとりで400㎞走ったことも一度や二度じゃありませんでした」

 

それでも伊達さんは充実した日々を送っていた。介護用品は必要に迫られて購入するもの。無理やり売るものでもなければ、合わないものを押し付けることもできない。

 

つまり需要と供給が合致して初めて売買が成立する。後ろめたさがないのだ。

 

「いつも『ありがとう』って言ってもらえるでしょう。それに毎日、違う現場で頼りにされる。それがうれしかったんです」

 

 

 

■3年間続いた富澤さんからのラブコール

 

「就職したのは1992年で、当時の手取りは15~16万円くらいでした。相方ですか? あいつは迷いなく芸人になると決めていましたから、就職はせずにずっとバイトしていましたね」

 

高校のラグビー部時代からの友人だった富澤たけしさんから、「コンビを組もう」と声を掛けられるようになったのは、就職して2年目に入ったころ。1年目の頑張りが認められ、仙台本社で一番大きな地区を任されたばかりだった。

 

「ことあるごとに富澤はラブコールをくれていたんですが、ボクは仕事に一生懸命でそれどころじゃなかったですね。新しいエリアを任されたばかりで、その仕事を放り出すわけにはいかないし……。

 

それよりも専門学校を3か月で辞めてる人間が、今度はコネで入れてもらった会社を2年経たずに辞めますなんて、オヤジにはとても言えませんでした」

 

伊達さんは周りの人からとても愛され、大事にされていたのだろう。あの人懐っこい笑顔で、誰とでも仲良くしていたに違いない。

 

辞められなかった理由は、コネなどではなく、尊敬できる先輩に囲まれて、やりがいのある仕事と向き合う日々にいるなかで、「お笑い」という世界が現実味を帯びていなかったのではないか。

 

しかし就職して5年。ついにラブコールを受け入れ、会社を辞めるときがやってきた。

 

「大好きなおじいちゃんが亡くなったんです。あぁ、人生なんてあっけなく終わってしまう。急いでやらないと間に合わない――そう実感しました。

 

それまで介護の仕事でも、人の死に向き合ってきました。たとえば、どなたか亡くなると、使っていた介護用ベッドは葬儀社よりも先に引き上げなくてはいけないんです。

 

ベッドのあるところに祭壇を設えるからです。ベッドが邪魔なんですね。そういう面では、結構しんどい思いをしましたね」

 

伊達さんは心の中は、いろいろな人の死によって、考え方が少しずつ変化していったのだろう。そして最後に背中を押したのが祖父の死だったのだ。

 

24歳になっていた伊達さんは富澤さんとともに夜行バスに乗って、東京へ向かった。

 

 

 

■「伊達にそういう血は流れていない!」

 

「父は昔かたぎの人で、しかも金融関係に就いて、まじめにコツコツ働いている人でしたから、『仕事を辞めて芸人になります』なんて言って、笑って許してくれるような人じゃありません。

 

学校、仕事と短期間で辞めて、フラフラしていると父の目には映ったんでしょう、『伊達にそういう血は流れていないッ!』と一喝されました」

 

家族の歴史を追う『ファミリーヒストリー』(NHK)で、「父親から芸人になるときに『伊達の名前は使うな』と言われました」と言っていたシーンを思い出した。

 

番組内で息子について語る父親の姿は息子を応援する好々爺だったが、考えてみれば当時の父親は現役バリバリ。伊達の名を誇りに思う父親にとって、息子の行動は奇怪に映ったに違いない。

 

「母親はね、好きなことをやればいいんじゃないというタイプでした(笑)。そして、もうひとつ背中を押してくれたのは、会社で社長と本部長に辞めることを伝えたとき、『お笑いは人を笑わせて、和ませて、癒す。福祉のひとつの形だ』と、快く送り出してくれたこと。

 

そのとき改めて素晴らしい人と仕事をしていたのだと実感しましたね」

 

そう話す伊達さんの目には少し涙が浮かんだように見えた。だが、聞いているこちらの方が感動して泣きたくなってしまった。

 

伊達さんがすぐに芸人に転向しなかった、できなかった理由が理解できたからだ。こんな素晴らしい人と離れたくない。

 

 

■相方と2人、10年間のアパート暮らし

 

1998年9月に2人はコンビを結成。そして男2人が暮らしたのは板橋区の家賃6万8000円のアパートだ。伊達さんは上京するときに、自分が大学へ行ったと仮定して、芸人を目指す期間として4年間を自分に与えた。

 

とはいえすぐに仕事があるわけでもなく、生活のためにアルバイトに精を出すことになる。アルバイトに時間を取られて営業や舞台に立つ時間が減れば、何のための上京だったのか。そうやって夢を諦めていく人が多いなかで、伊達さんと富澤さんは違っていた。

 

「どんなに生活が苦しくても、前の人生を振り返らないようにしていました。でもそれはひとりだったらできたかどうかわかりませんね。2人でいたからこそ、夢を語り合え、支え合えた。お互いの存在が大きかったと思います。

 

いま、養成所でコンビを組むという芸人が多いなかで、僕らのような高校時代の仲間が、一緒に上京してお笑いに挑戦するというのは珍しいケースなんですよ。」

2人の生活は、どこかラグビー部の合宿所の延長線――そんな気持ちがあったから、必要以上に深刻にならず、あぐむことなく、10年間をともに暮らすことができたのかもしれない。

 

明日も頑張ろうと仲間同士で励まし合うように、夢を語り合う日々は、伊達さんに一度たりとも、お笑いに挑戦しなきゃよかったと思わせなかったのだから。

 

少しずつライブではウケるようになってきたものの、テレビには縁がない日々が何年も続いた。4年という自分に許した期間はとうに過ぎて、30歳は目前である。さすがに焦りを感じ始めた。

 

 

 

■2人分のチャンスが一度にやってきた

 

「年齢はやる気を喚起するのに大きな理由になりましたね。男の分岐点は30歳で、このときに何をしているかが、その後の人生を決すると考えてたからです。

 

しかもボクらが30歳になる2005年はすぐそこでした。でもね、よく人生にチャンスは3回って言うでしょう。ボクの3回はもう来てしまっているのか、それともチャンスは来ていないのか、本当にくよくよと考えましたね。売れる人は何を持っているんだろう……とかね」

 

お尻に火が点いた2人、ライブへの出演を重ねて腕を磨いた。そして2007年、30歳を少しばかり超えてしまったけれど、史上初となる「敗者復活」からの「M-1グランプリ」優勝を果たし、4239組のトップに立った。

 

それ以降の活躍ぶりは改めて語ることもないだろう。「このときにボクら2人分、6つのチャンスがいっぺんに来たんです」。なるほど、チャンスにはこんな使い方もあるのか。

 

「売れない時期、仙台に帰りたいなーって思うこともありました。たとえひもじい生活をしていても、おいそれと戻ることができない。いや、やめるきっかけすら見つけることができない状況になっていましたね。

 

あ、でも富澤と2人で仙台に逃げ帰ったことがありましたよ。理由はおっきなゴキブリが出たから(笑)。ボクら、それまでゴキブリを見たことがなくて、動きは速いし、死なない。『これがゴキブリか~』って、関東の洗礼を受けました」

 

 

 

■生まれ育った町への恩返し

 

2011年3月11日。順風満帆の日々を歩んできた2人の前に起こったのが東日本大震災だった。2人は宮城県気仙沼市でのロケ中に被災した。そして以来、2人は復興支援に奔走し、いまも続けている。

 

「被災した場所には、ボクが営業として担当していたエリアも含まれていて、たくさんの見知った顔がいるところです。

 

当時、担当していたおじいちゃん、おばあちゃんはいないかもしれないけれど、その娘さんや息子さん、お孫さんはずっと暮らしている場所。彼らへの恩返しですか? なっていればいいなって思いますね」

 

恩返しになっているかな、どうだろうなという表情で、伊達さんは目を伏せた。彼にとって、サラリーマンとしてやっていたころ、多くの人にもらった笑顔、そしてありがとうの言葉をまだ返し切れていない、そう思ったのかもしれない。

 

そして、仙台から東京へやってきて17年、年齢は40歳を超えた。

 

「いつのまにかいいオヤジの年齢になりましたね。どこか焦りもありますよね、あと20年で還暦かって。自分のいま、そしてこれからを考えるとき、オヤジが40歳のとき、何してたかなって思うんです。

 

息子にとって、父親しか自分の人生と照らし合わせて向き合える男っていないでしょう。そうするとね、四十代のオヤジは、一生懸命働いていたってわかるんです。あの当時は見えませんけど、いまならわかる。

 

すると『あぁ、ボクはいま、しっかり働く年齢なんだな』と、毎日の仕事に真摯に向き合えるようになるんです」

 

同じ働く男としての道しるべ。それが父親だと伊達さんは言う。「四十代のオヤジを考えると、四十代の俺らは、こんなに頼りなくて大丈夫かって思いますけどね(笑)」父親への尊敬をそんな笑いで表現する。息子はそんなふうにオヤジをリスペクトするのだろう。

 

 

 

■サラリーマン経験に悔いなし

 

「芸人として考えたら一日でも早くデビューした方がいい。ボクらのような芸人の上下関係はさほど厳しくないけれど、寄席などで落語家さんのしっかりした関係を見ていると、すごいなと感じます。

 

ただし、ボクにはサラリーマン経験があるおかげで、常識的なことが身に付いていて、そういう面での大きな失敗が少ないんです。

 

たとえば上座とか、宴席で体得する礼儀みたいなものなど、実生活で役立つことも多いですね。富澤はね、ま~ったくできませんから。その点はボクがぜ~んぶ、助けてますよ、えぇ」

 

サラリーマンを経験していて本当によかったかと尋ねたら、人懐っこい顔でニッコリ笑った。芸人としてのスタートが遅くなっても悔いはないとも。

 

会社員だった5年間の経験がもたらしてくれたものが大きいことを実感しているのだ。

 

「ボクらのDVDには字幕を入れているんです。ボクの奥さんの友だちの娘が聴覚に障害があって、じゃあ、字幕を入れようということになったんです。

 

そのとき『あぁ、こういうことを話してたんだ。初めてわかった』と。字幕さえあれば一緒に笑うことができる。以来、字幕を入れるようにしています」

 

お笑いのDVDに字幕を入れる。おそらく、彼らしかやっていないことだろう。彼の介護の経験は、こうした新しいチャレンジへの助けとなっているようだ。

 

「お笑いの会場にお年寄りが増えたと感じますね。これから高齢化が進みますからもっと増えていくんですよ。だから彼らがわかりやすいようにやるにはどうしたらいいか、考えなくちゃいけない。テンポをゆっくりするとか、いろいろやれることはありそうですよね」

 

 

●サンドウィッチマン

伊達みきお

1974年、宮城県生まれ。グレープカンパニー所属。相方・富澤たけしとは、仙台商業高等学校(現・仙台市立仙台商業高等学校)時代の同級生。卒業後、介護用品関連の企業に就職したが、あるきっかけで退社すると1998年に「サンドウィッチマン」を結成。2007年、「M-1グランプリ」で敗戦復活から優勝を果たした。

 

 

文:小泉庸子 写真:佐坂和也 取材協力:

この記事が気に入ったらいいね!しよう

For Mの人気記事をお届けします

SNSで記事をシェア

For M

For M

現代の男たちに足りないもの、それは「熱」。 仕事・遊び・趣味・恋愛に、何事も全力投球でまっすぐな熱さを持って打ち込む。そんな“熱男”こそ、我々が目指す“現代の伊達男”だ。 For Mでは...

For Mのプロフィール&記事一覧
ページトップ